花紀行 熊谷桜堤 ('05.4.10)

明治から大正にかけて、荒川の熊谷堤は関東有数の桜の名所だった。熊谷駅に近く、しかも鉄道沿線だったため、その数の多さや美しさは全国にまで広まった。若山牧水も「乗り換えの汽車を待つとて出でて見つ熊谷土堤のつぼみ桜を」と詠んでいる。

しかし、大正14年(1925)の大火で火をかぶって以来、桜は衰え、昭和16年に荒川新堤防建設に伴い桜堤は取り壊された。それから12年後、新堤に桜が植樹され、いまや約2kmにわたって500本ほどのソメイヨシノが見事に生長している。

前年に訪れた、同じく埼玉県内の幸手市・権現堂桜堤も1kmに渡る桜堤でかなり素晴らしかったが、こちらは枝が低い位置にあるため、頭上近くに満開の桜を見ることが出来て、身体がすっぽりと桜に覆われそうな気分になる。

屋台が設置される荒川大橋の東側部分は人が多いし、場所取りもスゴイし、みんながバーベキューをやっているので何処に居ても非常に煙たい!(>_<) その点、橋の西側部分は屋台こそ無いが、静かで場所取りの必要も無いので、自分でお弁当を持参するなら西側がオススメ♪

駐車場は河川敷を利用しており、荒川大橋を挟んで東西1ヶ所ずつ、堤防沿いに入り口がある。駐車料金は無料だが、周辺に案内看板等が全く無いので、一発で辿り着くのは至難の業かも。(^_^;)

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花紀行 川越・喜多院 ('05.4.10)

川越大師喜多院は、仙芳仙人の故事によると奈良時代にまでさかのぼる。伝えによると仙波辺の漫々たる海水を法力により除き、そこに尊像を安置したというが、平安時代、淳和天皇の勅により天長7年(830)慈覚大師円仁により創建された勅願所であって、本尊阿弥陀如来をはじめ不動明王、毘沙門天等を祀り、無量寿寺と名づけられました。

参道の桜も満開!

多宝塔と桜

境内の桜は満開を少し過ぎておりやや散り始めだったが、ものすごい人出だった。レジャーシートが所狭しと並べられ、隣りの人とぶつかりそうなくらい・・・(^_^;)

 

境内の「客殿・書院・慈恵堂・五百羅漢等」は有料ゾーン(拝観料¥400)になっている。

喜多院と徳川家との縁は、慶長十六年に家康公が川越を訪れた際から始まるそうです。
当時の天海僧正の意見により寺領四万八千坪と五百石を下し喜多院と名称を改め、その後四代将軍・家綱公の時に東照宮に二百石を下し時勢をふるったそうです。
また寛永十五年の川越の大火により焼失した際は、三代将軍・家光公の命により【江戸城・紅葉山】の別殿を移築し客殿、書院等に当てられました。
この事により、【家光公誕生の間】【乳母・春日局の化粧の間】等が、当時のままの姿で喜多院に現存することとなりました。(残念ながら内部は撮影不可)

左の樹は「家光公お手植えの枝垂れ桜」

江戸城・紅葉山の庭園を模した奥庭園は寺院のものとは思えないくらい広大で(庭園内の散策は出来ませんが・・・)素晴らしかった。他種類の樹木が植えられており川や橋などもあり、当時の江戸城の庭園を偲ばせるものだった。

 

写真左・川越の観光名所の中でもことのほか人気の高い喜多院の【五百羅漢】日本三大羅漢の一つに数えられます。笑うのあり、泣いたのあり、怒ったのあり、ヒソヒソ話をするものあり、本当にさまざまな表情をした羅漢様がいる。いろいろな仏具、日用品を持っていたり、動物を従えていたりと、観察しだしたらいつまで見ていても飽きないくらい変化に富んでいます。

写真右・喜多院の南側にある仙波東照宮】。日光、久能山と共に、三大東照宮のひとつに数えられる(→ 「日光旅行記」 & 「静岡のページ」 参照)。「ミニ東照宮」という感じで日光には規模では負けるが、色合いは良く似ている。今回訪れたことで「三大東照宮」制覇しました(^_^)v

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