タヒチ&イースター島 ('05.7.12〜23)

日目(7月20日) 〜その1〜 曇りのち晴れ時々にわか雨

AM8:00に起床し、前日と同じレストランで同じメニューの朝食を摂り、本日のツアー集合時間AM9:30にフロント付近でお迎えを待つ。案の定、ワゴン車がやってきたのは15分遅れのAM9:45だった。。。

本日のメンバーはイースター島到着日のツアーと同じく、スペイン人一家&ハンガリー人おじさんと我が家。Daleから本日の予定の発表。午前中に島の南西にあるラノ・カウ山周辺を観光し、午後はイースター島博物館に行ったあと、村の教会に寄り、最後にショッピングに案内する・・・とのこと。

「あれ???(?_?)」 我が家は確か滞在最終日は午前半日観光のみのはずなんだけど?日程表にも 「半日島内観光。終了後、出発まで自由行動。お部屋は出発までご利用頂けます。」 と書かれている・・・。何かの手違いか?もしかしたら我が家のみ午前中で車を降ろされるのかも?・・・まぁ、ココで色々考えても仕方ないので、とりあえず素直にDaleに任せることにした。

村から10分ほどで、「人間を食べた」と言われる洞窟「アナ・カイ・タンガタ」に到着。

 アナ・カイ・タンガタ Ana Kai Tangata
波打ち際に大きく口を開けた横穴の洞窟。ラパヌイ語で、「ANA」は洞窟、「KAI」は食べる、「TANGATA」は人間を意味するので、「食人洞窟」と呼ばれている。しかし、実際には人骨は見付かっていないので、オロンゴの儀式の為の人選をした洞窟との説が有力。洞窟天井には500年前のものといわれる鳥人や鳥の壁画が残っている。

狭く急な崖を降りた所に洞窟がある。奥行きはそんなに深くはないが、荒々しい波がすぐそばの岩に打ち付けて迫力ある景色だった。洞窟内は薄暗くて、「人間を食べた場所」と言われても納得してしまいそうな雰囲気。。。最初に洞窟が発見された時は骨ばかりだったが「羊の骨」だけだったので、もしかしたら「人が食べる洞窟」という意味ではないか?という説や、「カイ=食べる」ではなく「カユ=選ぶ」がなまったもので、「人選洞窟」という意味ではないか?という説もあるらしい。ただ、伝説では「耳長族が食人の習慣を持っていた」とも言われているので、結局、真実は謎のまま・・・。

洞窟天井の壁画はかつては一面にあったらしいが、今は部分的に残っているだけでかなり見づらい(-_-;)。サトウキビから取れる顔料で描いたと言われてる。奥には神棚らしき物も残っている。 ペンライトを使い壁画を照らしながらDaleが一生懸命説明してくれていたが、波の音が多き過ぎてほとんど聞き取れなかった・・・(^_^;)

 

ラノカウ火口に向かう途中、見晴らしの良い場所があったのでちょっと停車。

← ラノ・カウ山中腹からみたハンガロア村方面

手前に見えるのが「マタベリ空港」の滑走路。1985年スペースシャトル「チャレンジャー」の緊急着陸用としてNASAが改装したもの。全長3300mのポリネシアで一番長い滑走路。

・・・古代の遺跡の島と最先端のスペースシャトル・・・不思議な組み合わせ。

 

 ラノ・カウ山 Mt. Rano Kau
島を造った3つの火山のうち、今から約250年前に島で2番目に噴火したのがラノカウ山。現在は巨大な火口湖をもつ休火山。火口湖は直径1.6km、水深4〜11m。頂上から水面まで200mくらいあり水面まで降りることが出来る。水面にはトドラ葦が生えていて、風によって流されると眺めが変わる。この湖の水は地下水脈に繋がっており、ハンガロア村の飲料水として利用されている。

火口の内側は暖かいので農園として利用され植物が植えられている。近くには「鳥人」や「マケマケ神」が彫られた岩絵もあった。火口内の斜面にはこのような岩絵がたくさんあるらしいが、ツアーでは水面近くまで降りないので残念ながら見ることは出来ない。

ラノ・カウ山の南側には、鳥人儀式のために造られた村の跡「オロンゴ儀式村」がある。

 オロンゴ儀式村 Orongo
1500年頃からある古い村で、「モアイ倒し戦争」で人口が減少したあとマケマケ神を信仰する鳥人儀式が行われるようになった場所。1960年代に復元された53棟の石積み住居がある。周辺の岩には鳥人、マケマケ神など約500もの岩絵が残っている。また、眼下の海には鳥人儀式で使われた小さな島が臨める。

イースター島内で唯一この遺跡だけが入場料を支払う建物があり、きちんとした入場ゲートやトイレ、見学ルートが整備されていた。 ガイドブックには 「ここで国立公園入園料を払えば、島内全ての遺跡を観光出来る」 と書かれているが、この時の支払いはDaleが人数分まとめて払っていたけどチケットを受け取った覚えもないし、3日間で行った他の遺跡に関しては入場ゲートがあったのはココだけで、チケットチェックする人も全く見かけなかった。。。結局、島内の遺跡見学については、現状はかなり適当だと思う・・・(^_^;)

散策路脇に立っている番号札に沿って見学。本当に「普通のツアー観光」みたい(笑)。

石積み住居は入り口が極端に小さいのが特徴。中はかなり狭く、膝を抱えて座った状態で寝ていたと考えられている。釘等は全く使用せずに薄い岩を何枚も積み上げる工法で、岩同士が微妙なバランスで球形の室内を作っている。
← 手前から「モトゥ・カオ・カオ Motu Kao Kao」、「モトゥ・イティ Motu Iti」、「モトゥ・ヌイ Motu Nui」

「鳥人儀式」では政治の実権を握る為に300mの断崖を下り、沖合に浮かぶこの3つの島のうち一番遠いモトゥ・ヌイまで海流を横切って約2km泳いでいたらしい。。。

海から島を見るようなツアーもあるようで、小さな船がこの島の間を通過していたり、近くにはダイビング用の船も浮いていたりした。

ところで、「鳥人儀式」とは・・・?

 鳥人儀式
石像信仰(モアイ信仰)が終わったあと、天地創造の神「マケマケ神」の信仰が始まった。マケマケ神の化身は「タンガタ・マヌ(鳥人)」と呼ばれ、聖なる絶対的な力「マナ(霊力)」を持つと信じられた。この鳥人を選ぶ儀式が「鳥人儀式」である。毎年7〜8月、35支族からそれぞれ代表の戦士「ホプ」が選ばれ、離れ小島のモトゥ・ヌイ島にやってくる渡り鳥(岩ツバメ)の最初の卵を持って帰る競争を行う。勝者の族長はその年1年間「タンガタ・マヌ(鳥人)」となり、島の政治的・宗教的権力を握ることが出来る

断崖には絶えず強風が吹いており、レース中は殴り合いや殺し合いも認められていて、更には海にはサメもいて、断崖等で傷ついた戦士が何人も犠牲になり、卵を持ち帰る途中で戦士が息絶えても卵が無事ならレースは続行され、持ち帰った者が勝者になったという過酷なレース。この儀式で決まったタンガタ・マヌ(鳥人)は、一般の人と一緒に暮らせず、従者1人だけと共にトンガリキ近くの洞窟に移って修行を積み、1年の役目を終えると一般人とは別の位の生活が用意され、死後はアフに葬られ後世まで名を残した。

「権力を握りたい」と思うのは、どんな時代でも「人間の性」なのか? こんな過酷なレースの最中、村では連夜宴会や踊りが催されていたというのも現代と似ている・・・(^_^;) このような島の文化は、西洋人が続々と島にやってくると同時に急速に失われ、鳥人儀式も1866年を最後に行われなくなったので今では見ることは出来ない。

← なんのことないただの岩の固まりに見えるが、近づいて良く見ると、細かな彫刻が施されている。

左下の写真の岩には鳥人、右下の写真の岩にはマケマケ神が彫られている。( ・・・よく分からないよ〜(-_-;)という方は → CLICK )

 「鳥人儀式が歴史を閉じた」という記録は、当時イースター島に滞在していたキリスト教牧師の記録によるが、実はそのキリスト教がイースター島の文化が失われたひとつの原因と考えられている。キリスト教信仰が始まると、マケマケ神や鳥人信仰は異教であり、それら全てが異教徒の文化であるとされ、ラパヌイ人(原住民)自らが積極的に自分達の文化を葬ってしまった・・・。それ故に、モアイ像を始めとした全ての謎の手がかりとなる物は、現代には何も残っていないらしい。。。